カウラは忘れない
おはようございます
迦音アンバサダー北原千楓です。
東京は日に日に涼しくなり、秋が深まっています。
昨日はインスタライブの後、バラを見に行ってきました。
春のバラとは違い、落ち着いた雰囲気のしっとりきれいなバラでした。
本日は映画についてお話ししたいと思います。
近頃、次回カンナガラワークに向けて、
戦争に関する資料を集めていて、
その中で気になる映画と出会い、先日見に行ってきました。
それが「カウラは忘れない」という映画です。
HPより引用
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第二次世界大戦中、カウラにあった収容所では、捕虜による自治がある程度認められており、形式的には民主的な秩序が成立していた。重要事項は42の班ごとに話し合い、班長会議で決定していた。ジュネーブ条約にのっとって捕虜には食事や医療が充分に与えられ、野球や麻雀などの娯楽も許されており、安穏な日々を過ごしていた。そんな中でも、日本人捕虜たちの頭から絶えず離れない戦陣訓の一節があった。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」。人数が増えすぎた日本人捕虜の分離・移動命令をきっかけに、この機会をとらえて決起すべきだと一部の強硬派が主張する。逃げ切れる望みのない絶望的な集団脱走を決行するか否か、全員による投票が提案された。日本人捕虜一人ひとりは「生」か「死」か判断を突きつけられる。
そして、1944年8月5日未明、 静寂を破るかのように突撃ラッパが収容所に響き渡る―。
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カウラとはオーストラリアの地名です。
私はカウラ事件という事件も知らなかったし、
日本がオーストラリアまで攻撃範囲を広げていたことすら知りませんでした。
オーストラリアでの捕虜としての生活は、
上記にもあるようにとても平和で穏やかな日々だったそうです。
しかしそんな生活が彼らにとっては、屈辱でもあり、
飢えで苦しみながら線地で戦っている仲間を思うといたたまれなくなったとも
語っていました。
そんな中で起きたこの事件。
なぜ彼らが脱走という道を選ばなくてはいけなかったのか。
私には当初理解できない感覚でしたが、
当時の捕虜の方たちが事件を詳細に語ってくださっている言葉を聞いていると、
彼らの気持ちが鮮明に伝わってきて、
理解をすることが出来るようになっていきました。
そして戦争が人々の判断基準や選択肢を奪っていくことの悲しさを感じました。
そしてその中のお一人、立花誠一郎さんの話がとても印象的でした。
彼はカウラの収容所でハンセン病と診断され、
日本に帰国してからは国立ハンセン病療養所に入所したという
“ダブルプリズナー”。
彼は差別と偏見と闘いながら、必死で生き抜いていらっしゃいました。
どこまでも穏やかで、笑顔とユーモアを忘れない語り口は
とても心惹かれました。
とってもお勧めの映画です!
ぜひ機会があればご覧いただけらと思います。
本日もお読みいただきありがとうございました。
皆様にとって素敵な一日でありますように。
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北原千楓
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